長嶋茂雄の家族|妻・子供4人~大黒柱の母の死後、長男一茂と次女三奈が骨肉の争い


スポンサーリンク

https://twitter.com/oldoil_/status/1887464381946220913

長嶋終身名誉監督が東京ドームに姿を見せると球場の雰囲気が変わります。

阿部監督やコーチ、選手たち全員が直立不動になり、長嶋さんの偉大さがよく伝わります。

そんな長嶋さんのご家族は一体どんなご家庭なのか調査しました。

長嶋茂雄本人
亜希子
一茂長男
有希長女
三奈次女
正興次男

ロイヤルファミリーならではの複雑な環境が浮き彫りになりました。

妻・長嶋亜希子

亜希子は1943年に東京都渋谷区で生まれ。長嶋茂雄の7歳年下です。

父は「内外出版社」の社長である西村光雄、祖父は「東雲堂書店」の経営者である西村辰五郎いう名家に生まれました。

因みに、東雲堂書店は石川啄木の「一握の砂」、斎藤茂吉の「赤光」が発行されており、日本文学史の発展へ重要な貢献をしています。

そんな環境で育った亜希子ですから、中学・高校と名門女子校として知られている「田園調布雙葉学園」へ進学し、高校在学時にはアメリカへ留学をすると、その後はミネソタ州の聖テレサ大学へと進学します。

卒業時には英語のみならず、フランス語、スペイン語が堪能なマルチリンガルとなっており、まさか『I live in Edo』の奥さんになるとは想像もつかない、素晴らしい経歴の持ち主でした。

その後、語学力を買われ、1964年に日本で開催された第18回東京オリンピックにてコンパニオンに抜擢されました。

一方の長嶋も報知新聞社が主催した「ON五輪を行く」という企画にて王貞治とともに特派記者として参加し、その企画の一環として、コンパニオンとの対談があり、ここで二人は運命の出会いを果たすこととなります。

この対談が行われたのは長嶋が29歳、亜希子が22歳、1964年の10月のことでした。

ここで、長嶋は亜希子へ一目惚れをし、長嶋の猛アタックが始まったといいます。

出会って2日後からはデートに誘うのが毎朝の日課となり、初デートの日には長嶋は早起きし、デートコースの下見をして、掃除までしていたといいます。

また、競技場に訪れた際も、同行する王から双眼鏡を奪って、亜希子の姿を探し回る姿もありました。

そんな熱烈なアピールが実を結び交際が開始すると、亜希子は兼ねてより語学力を生かし外務省勤務を夢としていましたが、長嶋のアプローチに折れて夢をあきらめると、11月26日には婚約を発表、なんと出会って40日後のことでした。

亜希子は「飾り気のないところに惹かれました。スターらしくない方。一緒にいて楽しくなる方だと思います」と長嶋を評し、長嶋は余りの恥ずかしさに顔を両手で覆ったといいます。

そして翌1965年1月26日、出会ってからたった100日で結婚、情熱のまま突き進んだ、まさに長嶋らしい超スピード婚でした。

結婚の証人には巨人の代表取締役正力亨夫妻が務め、カトリック渋谷教会で行われた結婚式には教会前に大勢のファンが集まり警官が出動するほどでした。

ホテルニューオータニで開かれた総額1000万円とも言われる披露宴には川上哲治監督や読売新聞上層部はもちろんのこと、日テレ社長や自民党副総裁、立教大学総長、富士製鉄社長など政財界から350人もの錚々たる面々が参加しており、まさに日本中が大注目する夫婦が誕生しました。

結婚後の亜希子は長嶋の「男の職場に顔出すな」という言葉を忠実に守り、影から長嶋を支え続けます。

長嶋の遠征時の荷造りや、バットやスパイクなどの野球道具の手入れ方法を勉強し、道具の管理もすべて亜希子が行っていたといいます。

長嶋の個人事務所である「株式会社オフィスエヌ」の代表取締役を務め、公私ともに長嶋のサポートをしていました。

また、試合に熱中しすぎた為か、自宅への帰り道が分からなくなり、迷子になった長嶋を亜希子が後楽園球場まで迎えに行くこともあったといいます。

そんな結婚生活はまさに順風満帆で子宝にも恵まれ、長男・一茂、長女・有希、次女・三奈、次男・正興の2男2女を儲けました。

子供の教育も当然亜希子が全てを担っており、旦那への影から支えた姿勢とは違い、子供相手には厳しい面もあったといいます。

一茂は「キューティーハニー」などお色気シーンがあるテレビは全く見せてもらえず、お抱え運転手の部屋でコッソリ見ていたこともあったそうです。

また、一茂を始め子供たちは有名学校に進学していることから、教育へも熱心だったことが伺えます。

一茂に至っては現在では「おバカキャラ」の印象が強いですが、中学時代は毎日塾へ通い、毎週日曜日には家庭教師も付けていたほどでした。

ただ、教育に熱心なだけでなく、長嶋の留守中に強盗に押し入られた時には、亜希子は敢然と立ち向かって追い払って子供を守り、手のひらにはナイフによる傷が残っていたといいます。

長嶋とも親交の深いアナウンサーの徳光和夫曰く「彼女がいなかったら、長嶋家は崩壊していたと思える」と言わしめるほどの存在でした。

長男・ 長嶋一茂

長嶋一茂は二人の結婚式からちょうど1年後の1966年1月26日生まれ。

小柄な父親とは打って変わって、一茂は大食漢だったこともあり、人一倍大きな子供だったといいます。

のびのびと育てられ、家のベランダに水をためて鯉を飼ったり、長嶋の盆栽を壊したり、自宅の床をノコギリでくり抜いて「秘密基地」を無理やり作ったことでリビングのシャンデリアが落下するなど蛮行を繰り返しますが、両親、特に長嶋からは全く叱られたことはなく、甘やかされて育ったことであの自由奔放な人格が形成されたようです。

お金持ちの「お坊っちゃん」のイメージが強いですが、実際全くお金には困っていなかったようで、正月には自宅へ大勢の来客が訪れることから、お年玉は4、,50万円にものぼったと語っています。

また、一茂の誕生当初は長嶋家は上北沢ある340坪もの豪邸に住んでいましたが、幼少期に高級住宅街である田園調布へ引っ越しており、その新居が200坪だったことから「ちっちゃくなったね」と零していたといいます。

因みにその田園調布の家は、あまりにも有名になっているため、郵便番号や番地などはいらず「東京都大田区田園調布・長嶋一茂様」と書くだけで荷物や手紙は問題なく配達されていたというエピソードも残っています。

また、高校の頃には、お小遣いとして月に常に100万円をもらい、足りなくなると100万円が常にもらえる環境だったといいます。

そんな一茂は何不自由なく育ってきたように思われがちですが、「長嶋茂雄」という存在は、終生一茂について回る重しとなりました。

小学生3、4年生のころ、一茂の学校の運動会に長嶋が訪れたことがあり、ミスターの来校に大パニックで、運動会は一時中断。

リレーへの出場が決まっていた一茂は運動会を壊されたことへの怒りと恥ずかしさのあまり「二度とこないでくれ」と頼んだといいます。

また、一茂が野球を志したのは小学4年生のころ、地元のリトルリーグに入団し、野球をはじめました。

前年に現役引退し、この年から巨人の監督に就任した長嶋のジュニアの入団に周囲は盛り上がり、一茂には有無を言わさず、長嶋の背番号90、打順3番、サードの守備位置が与えられました。

因みに、長嶋の引退試合、一茂は始球式をやらないかと言われますが、引退については全く知らされておらず、恥ずかしいからという理由で断って歯医者へ通院しており、歯科衛生士からその日が引退試合だと知らされたといいます。

また、引退後に長嶋が背番号90を選択したのは一茂から「パパは背番号3番で3塁手で打順3番だから足して9」という言葉から90番としたと言われています。

そんな大スター長嶋の才能を継ぐ「二世」なわけですから、メディアは当然黙っておらず、チームには大勢のマスコミが押し寄せました。

練習終わりに友達と話していてもカメラを向けられる始末で、そうなると一茂の周りからは友達は自然と消えていき、孤立するのを恐れた一茂は、1年半でリトルリーグを辞めてしまいました。

中学校は群馬にある全寮制である白根開善学校へ進学、両親は甘やかしすぎたのを悟ったのか敢えて家から離れた学校に入学しましたが一茂は1年で断念、自宅の近所でもある田園調布中学校に転校することとなります。

中学では小学時代のトラウマからか野球からは距離を置き、陸上部へ入部すると100mリレーで大田区大会の決勝まで進むほどの実力を発揮。ポテンシャルの高さを見せつけ、中学3年時には身長は180cm近くまで伸び、握力も80kgを記録、まさに恵体へと成長していました。

そんな一茂の転機となったのは中学3年時の秋のこと、6年にわたり巨人の指揮を執り続けた長嶋が解任されることとなりました。

生まれて初めて父がクビになる姿を目の当たりにした一茂のショックは計り知れないものだったでしょう。

部屋や廊下と家中に「リベンジ」とカッターで刻み込むと、父を捨てた巨人を見返すため、再び野球を始める決心を固めます。

「すごい選手になってジャイアンツに入って全盛期でパーンと辞めてやる」と意気込み、ここで初めて一茂はプロ野球選手を目指すこととなりました。

因みに、プロ野球選手を志すまでは忍者を本気で目指しており、実際に免許皆伝を受けている人へ弟子入りし、山梨県で修行をしていたといいます。

ただ、非常に寒かったことから3泊4日で音を上げてリタイアしたようです。

こうして、甲子園出場を目標に立教高校へ進学すると野球部へ入部、中学3年間を棒に振ったこと、しかも「サボりの天才」とも呼ばれるほどの練習嫌いもあって、当初はレギュラーなどは夢のまた夢でした。

ただ、チームメイトが眠った後、素振りを繰り返すなど陰の努力、そして父親譲りの才能もあってか、僅か1年半で「4番ファースト」を手に入れるまで急成長を遂げます。

しかし、甲子園がかかった3年の夏、県予選準決勝でサヨナラで敗れ惜しくも出場を逃すこととなります。

その後、父の母校である立教大学へと進学すると、長嶋は2年でレギュラーになったのにも関わらず、一茂は1年から三塁手としてレギュラーを獲得、主将となった4年時には春、秋期リーグでベストナインに選出されています。

秋季リーグには打点王に輝き、日米大学野球選手権大会では4番に座るとアジア野球選手権大会にも選出され、野球を本気ではじめ僅か数年で、大学野球のスターへと急成長を遂げます。

4年間で101試合に出場して、打率.225とアベレージは低いですが、11本塁打、54打点を記録し、田淵幸一の22本には遠く及ばないものの、父親の8本を抜く確かな長打力を発揮しました。

1987年ドラフト会議、一茂の行き先が注目されましたが、ヤクルト、大洋が1位指名をすると抽選の結果ヤクルト・相馬和夫球団社長の「黄金の左腕」が冴えわたり、ヤクルトへの入団が決定しました。

「ミスター」の再来へ期待を込めて背番号3番を与えられます。

契約金は8000万円であり、この契約金で亜希子へ大学・高校時代の小遣いをすべて返したといいます。

ヤクルトが指名指名した経緯には当時監督を務めていた関根潤三の意向が強く働いたといわれています。

関根は長嶋と親交が深く、一茂も子供のころから知っており、かの有名な長嶋が一茂を球場に置き忘れて帰ってしまった時も一茂を自宅まで送り届けたのは関根でした。

関根の思惑としては、一茂を入団させ、その後自身の後釜として長嶋を監督へ据えようと考えていたようです。

実際、大洋で監督を務めていた際にも長嶋招聘に動いており、今回も水面下で招聘に動いていましたが、これは失敗に終わっています。

因みに、長嶋は一茂の入団先として、育成がしっかりしている広島への入団を勧めていたといいますが、一茂は広島には「仁義なき戦い」の印象が強く「ヤクザの場所みたいで怖そう」と断ったといいます。

1年目はキャンプから一軍メンバーとして抜擢されると、オープン戦でも結果を残し、開幕一軍の座を手にしますが、プロの壁は高く活躍ができない期間が続きます。

代打出場が続き、7打席ノーヒットとなっていた4月27日、大学時代から慣れ親しんだ神宮球場で巨人・ガリクソンからセンターバックスクリーンを飛び込むHRを放ち初ヒットを最高の形で決めました。

因みに8打席目での初ヒットは長嶋の10打席目を超えるものでした。

しかし、その後も快音は中々聞こえず、打率.203でシーズンを終えると2年目はさらに出場試合が減少、恩師の関根も退任することとなります。

3年目からは野村克也が監督に就任すると、さらに立場は悪くなり、試合数は激減します。

5年目となる1992年には野球留学を直訴し、才能の開花に期待が持たれましたがチームがこの年リーグ優勝をしたことで自身のポジションは自然となくなってしまうこととなりました。

ただ、才能だけで言えば、野村も打撃コーチの伊勢孝夫も先輩の八重樫幸雄も「逸材」と舌を巻く程でしたが、集中力が続かないこともあり、才能が花開くことは難しかったようです。

長嶋・親子鷹~父が監督、長男一茂がプロ野球選手

そんな一茂に転機が訪れたのは1993年、長嶋が巨人の監督に復帰すると、長嶋の肝いりで一茂は金銭トレードによる巨人への入団がきまりました。

ただ、親子が同じチームになるということに巨人のフロント陣は全く納得しておらず、トレードが決まった際、保科昭彦球団代表は「長嶋一茂選手を引き取るトレードを申し入れることになりました」と漏らしていました。

ルーキー松井秀喜とのライバル争いが注目されていましたが、一茂はオープン戦で打棒が爆発すると開幕スタメンを奪取します。

その後は打棒は陰りを見せていましたが、4月23日に移籍後初HRを放ち、これがセ・リーグ3万号のメモリアルアーチとなりました。

ベンチの選手たちが大盛り上がりで一茂を迎える中、長嶋は自分がどういう動きをすればいいのか分からず、ベンチ際でうろうろしていたといい、一茂との監督と選手としての距離感に戸惑いがあったようです。

因みに長嶋が新人時代に1塁を踏み忘れてHRを1本無駄にしたことで、一茂が3万号を達成することができており、不思議な親子の縁を感じさせます。

また、翌1994年には不調だった原辰徳の代打として一茂が送られたこともあり、これには原も「これまで感じたことがない感情が込み上げてきた」と述べており、一茂自身も「頼むから出さないでくれって思った」と語っています。

しかし、この年から古傷の右ひじ悪化に加え、右膝の怪我もあって出場は減少することとなります。

1995年には1試合も出場機会がなくシーズンを終えると、1996年には土井正三コーチへの暴言もあって再び2軍落ちするとシーズンオフに戦力外通告を受け、引退を表明しました。

巨人在籍の4年間は長嶋と会話は全くなかったといいますが、戦力外通告は長嶋から家に呼ばれ、直接告げられたといいます。

これには「親父にそんなこと言わせちゃった自分がなんてダメな男なんだろうって思った」と語っています。

しかし、その後の一茂は芸能人へと転身すると俳優やバラエティなどで活躍し大成功を収めることとなります。

また、1999年に銀座のホステスだった猪野仁子と結婚しました。

因みにプロポーズをしたきっかけは1999年に人類滅亡を予言をしていた「ノストラダムスの予言が外れたから」だったといいます。

結婚後の仁子は一茂が立ち上げている事務所「ナガシマ企画」の社長に就任し一茂の活動を支え、双子の娘も授かっています。

長女・長嶋有希

他の3人の子供達の経歴ですが、

有希は一般人であるためメディアにほとんど登場しておらず、情報が極端に少ないですが、長嶋の資産管理会社である「オフィスエヌ」の役員を2010年まで務め、その後は障害者を雇用する農場「ココファーム」に務めているという噂もあることから、重度の障害を持たれているのでは?との話もありますが、とんねるずの石橋貴明も「有希さんはとても綺麗な人」とも語っており、噂はデマである可能性が高いと言われています。

次女・長嶋三奈

三奈は学生時代は母と同じ田園調布雙葉学園へ通う才女であり、テレビ朝日入社後は記者として活動を続けると「熱闘甲子園」では15年にわたってスポーツキャスターを務め、第99回の甲子園では始球式を務めるなど、甲子園ファンの間ではアイドル的存在でした。

https://twitter.com/Naoki7779/status/1786598444616032328

また、2024年に行われた巨人の創設90周年を記念した巨人阪神戦では長嶋の背番号3番を着けて始球式を務めました。

現在では「オフィスエヌ」の代表取締役務めるなど、様々な場所で活躍を続けています。

次男・長嶋正興

長嶋と親交の深い金田正一との縁によって暁星国際高校へ進学し、野球部では4番でエース、一茂以上の能力の持ち主と期待をされていました。

駒澤大学で怪我をしたことで野球を諦め、レーシングドライバーへ転身し、安定した成績を残し続け長きにわたり活躍をしました。

2008年に引退すると、環境管理士としてエコドライブの講習会など環境問題への活動に注力しています。

長嶋家の凋落

順風満帆な長嶋ファミリーでしたが、暗雲は突然立ち込め始めました。

2004年、長嶋が脳梗塞で倒れると、重篤な状態に陥ります。

幸い一命は取り留めたものの、厳しい状況は続き、倒れたときに長嶋はひとりだったということで家族を責める声もあったといいます。

しかし、家族で24時間体制で看護にあたり、特に三奈は甲子園の取材も取りやめてリハビリを手伝い、後遺症のあるもののなんとか回復に向かうこととなります。

しかし、長嶋の復帰にあたり、一茂は早くファンの前に出てほしいと言い、三奈は完全に回復するまで公の場に立つべきではないと述べ、意見は対立し、ここから家族間は少しずつ歪を生じるようになります。

2005年、長嶋は病気後初の公の場として東京ドームで姿を見せ、ファンたちから大歓声で迎えられましたが、この場には一茂のみが付き添っており、三奈の姿はありませんでした。

2007年には長年長嶋家を支えた亜希子が心不全により64歳で他界します。

元々20年近く膠原病を患い入退院を繰り返しており、何らかの死因に繋がった可能性も考えられます。

病院に運ばれた際、意識が戻らない亜希子に長嶋は必死に名前を呼び掛けていたといいます。

お墓は亜希子が大のハワイ好きで、昔住んでいたこともあったことからハワイに建てられました。

また、葬儀は家族のみの完全密葬で行われたことから「実は自殺だったのでは?」などといった心無い意見も聞こえていました。

しかし、実際長嶋の脳梗塞後はリハビリなどの理由から別居生活を続け、夫婦間に不和が生じており、また長嶋の愛人問題などの噂もあったことから噂に尾ひれがついて様々な憶測が飛び交うこととなります。

亜希子という大黒柱がいなくなったことで、家族間の軋轢はここから激化することとなります。

亜希子の死に伴い「オフィスエヌ」の代表取締役に三奈が就任

2009年に同社が持つ商標登録「長嶋茂雄」の期限が切れたタイミングで「ナガシマ企画」が商標登録を取得。

また「ナガシマ企画」は一茂の妻、仁子が代表取締役を務めていることから、仁子と三奈の対立も噂されています。

最終的には「オフィスエヌ」へ商標が戻される結果となりましたが、兄妹げんかは泥沼化していきます。

その直後には田園調布の自宅などに保管されていた長嶋氏の記念品を一茂が独断で福井県福井市の「スポーツミュージアム山田コレクション」に売却したことが発覚。そこには亜希子の私物も含まれており、三奈は「窃盗罪で訴えるしかない」と激怒したといいます。

当初は長女・有希は当時は「オフィスエヌ」の役員を務めていることから、三奈の意見に同調していたと思われますが、2010年頃に役員を解任されていることから、骨肉の争いはより複雑になっていったと思われます。

解任後は有希、次男・正興共々2人の争いからは距離を置いているようです。

その後、2013年に一茂は「週刊新潮」の記事へ名誉毀損で提訴、その裁判での証人尋問に立った一茂は「記事では三奈と兄妹の絶縁状態は続いているとあるが、もともと長嶋家はバラバラで、母の生前も6人そろって旅行に行ったことも、食事だってそろってしたことは一度もない。元々が家族断絶といってもよいと思います」と長嶋家について衝撃的な証言を語りました。

また、亜希子の弟の妻である叔母の存在についても語っており、亜希子の死後、叔母は長嶋の身の周りの世話をして、叔母への依存が強まりすべて言いなりとなっており、「後妻」とさえ認識している状態だといいます。

一茂は三奈は叔母と親交が深く、二人が結託し自身を貶めていると主張、叔母さえ関与しなければ、長嶋家は平穏だったと語っています。

2021年に一茂が発表したエッセイには「父とは、もう13年会っていない。生きているうちに父と会うことは、もう二度とないだろう。父だけでなく、妹達や弟とも10年以上顔を合わせていないし、連絡もとっていない」と親兄弟との確執の深さが鮮明に書かれていました。

ただ、エッセイの中には「どうしても言っておきたいことがある。それは日本中の長嶋茂雄ファンのなかで、僕こそが一番の長嶋茂雄ファンだということを」との一文もあり、父へのリスペクトは現在でも変わらない姿勢を見せています。

また、以前出演したテレビ番組では「そういうので揉めたくない」という理由で「兄弟4人、すでに3等分」と相続を放棄したと明言しています。

特に資産家の家庭では親兄弟との確執は避けては通れない問題でしょう。

しかし野球ファンとしては、やはりいつかは雪解けが訪れてほしいものです。

「球界のロイヤルファミリー」の今後の動向に注目しましょう。


スポンサーリンク

error: Content is protected !!