田村(谷)亮子の12年間~金メダルへの道


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谷亮子さんの強さについて解説していきます。あの頃、本当に強かった。柔道ニッポン女子を作った異次元の強さでした。

谷亮子 幼少期

「面白そう」
と小学校2年生だった田村亮子は、兄の通っていた柔道教室を見学し入門を決めて柔道を開始した。
そこは優勝旗がたくさん飾ってある強い道場で、練習中、130人ほどの道場生の中に笑っている者は1人もいなかったが、
「その雰囲気が好きでした。
真剣にやるムードに引きつけられた。」
という。
その道場の名は「東福岡柔道教室」
福岡県警にいた稲田明が、27歳のときに開き、数年後には全国大会にも出るようになった道場だった。
「私は子供が成長していく上で、指導よりもアドバイスが大事だと思うんです。
私が最初にいったのは『おまえは体が人一倍小さいのだから3倍の努力をしなさい』ということでした。
2つ目は、『柔道に限らず、一度やろうと決めたら最後までとことんやり通しなさい』と。
すると聞く耳を持っているというか、学校へ行く前の朝練でも皆より1時間も前に道場に来て、掃除したり、ゴムチューブを引いたりして練習が始まるのを待っている。
まだ小学校の2年生ですよ。
練習中も絶対に手を抜かないし、小学生の部が終わった後も1人居残り練習をし、高校生と同じように、夜10時半までトレーニングをして帰る。
それくらいの努力を小さな頃からしていました。」
そういう稲田明は、体が小さな田村亮子に、相手の下にもぐり込むような背負い投げを教えた。
しかもスピードを意識し、かつ左右とも技をかけられるように練習させた。
すると面白いように体が大きな人間を投げることができた。
「倒せる。」
田村亮子は柔道に夢中になり、とにかく自分よりも強い人に勝つことを目指した。
漫画「YAWARA!」の名言、
「柔の道は一日にしてならずぢゃ」
を胸に、体調が悪くても、台風がきても道場にいった。
1983年10月23日、博多の櫛田神社で奉納柔道大会が行われ、東福岡柔道教室も参加。
「亮子、5人全員に勝てれば、あれをもらえるとよ」
稲田明にいわれ、まだ道場に入って4ヵ月の田村亮子の目は境内の横の表彰台に置かれたメダルに釘づけになった。
「よし、あれを家に持って帰ろう。」
そして男子相手にすべて背負い投げで1本勝ちし5人抜き。
5人のうち2人は、境内の脇に敷かれた硬い畳に叩きつけられ脳振盪を起こし病院に運ばれた上、5人目は90kgはありそうな大きな子だった。
こうして8歳の少女が最初に手に入れたメダルは、金メダルだった。

谷亮子さん 強すぎた中学時代

中2で大人も出場する全日本選抜柔道体重別選手権大会の九州予選に出場。
準決勝で高校3年生の衛藤裕美子(1993年、ドイツ国際優勝)に立技でポイントをとってリードしながら終了間際に寝技(送襟絞)で逆転負け。
しかし全日本女子の強化合宿に呼ばれることになり、まだ白帯で140cmそこそこの中学生を誰も相手にしなかったが、乱取りが始まると次々に背負い投げを決め、周囲をザワつかせた。
中3で全日本女子のフランス遠征に参加し、練習試合で5戦全勝。
これらの実績から国際大会である福岡国際女子柔道選手権大会のメンバーに選ばれた。
準決勝で世界チャンピオンのカレン・ブリッグス(イギリス)と対戦し、開始十数秒、
「練習してきた技を出してみよう」
と思い切ってかけた体落としに女王が空中で回転。
「技あり!」
立ち上がったブリッグスにすかさず大内刈りで
「技あり!」
わずか28秒、合わせ技1本で勝利した。
畳から下りると生まれて初めて1本負けしたブリッグスは物陰に入ってしゃがみこみ、頭からタオルをかぶって泣いた。
決勝戦では、李愛月(中国)の内股を見切り、内股すかしで1本勝ち。
2ヵ月前まで白帯だった15歳の少女が国際大会初出場初優勝。
「地元出身なので1回戦だけでも勝てればと思っていたんですけど…
内股すかしなんて練習でもしたことがない。
体が勝手に反応しました」
試合から数日後にはアメリカ機関から
「タムラを遺伝子レベルで研究したい」
と申し出があり、数年後には
「遺伝子を調べたいので血液を採取させてほしい」
と書面で正式に依頼が来たという。
こうして福岡国際で衝撃的なデビューを果たした田村亮子は、その後も国内の大会で立て続けに優勝し、一躍、人気選手となり、
「YAWARAちゃん(ヤワラちゃん)」
と呼ばれるようになった。

田村亮子さん 高校時代にバルセロナ五輪!

福岡国際から2年後の1992年8月、バルセロナオリンピックの決勝戦で、16歳の田村亮子は、セシル・ノワク(フランス)と対戦。
1991年の世界選手権で、2人は直接対決しなかったものの、ノワクは1位、田村亮子は3位。
そしてこの試合で、146cmの田村は、162cmのノワクにもろ手刈りで効果を取られ、残り時間1分を切って強引に攻めたところを踵返で再び効果を奪われ、銀メダルが確定した。
ノワクは、フランス代表監督の村上清(京都府出身、8段、現:イタリアナショナルチームゼネラルマネージャー)から
「田村の弱点は技を仕かけて戻るときに重心がフラつくところだ」
とアドバイスを受けていた。
試合後、
「田村は小さすぎる。
勝てるわけがない。
16歳と若くきゃしゃで全く怖くなく、初めてだったが勝つ自信があった。」
と挑発的なコメント。
一方、田村亮子は
「負けは負けです。」
と潔く負けを認めたが、
「ノワク選手の方が、私より上でした。」
といった瞬間、目に涙をたまり、天井を仰ぎ、こぼれ落ちるのをこらえた。
まだオカッパの髪形を母親にハサミで切りそろえてもらい、福岡工業大学附属城東高等学校ではクラスメートに「タムコ」と呼ばれ、カーペンターズの音楽を聴きながらメロンを食べるのが大好きな女子高生だった。

「アトランタでは絶対に金メダルを」
新しく目標を立てた田村亮子は、バルセロナオリンピック以後、4年間、国内外を問わず公式戦で敗れることはなかった。


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1996年のアトランタオリンピックでは、日本代表の全競技、全選手の中で最も金メダルを期待されていた。
果たして20歳の田村亮子は、準決勝で最大のライバルと目されていたキューバのアマリリス・サボンに背負い投げで1本勝ちし、連勝記録を84に更新。
決勝の相手は、ワイルドカード(三者委員会招待国枠)で出場し勝ち上がってきた16歳の桂順姫(ケー・スンヒ、北朝鮮)。
もはや金メダルは間違いないと思われた。
決勝戦が始まると、作戦なのか、桂順姫は、「右前」にするべき柔道着を「左前」で着用。
この時点で「右前」はルールで明確化されていなかったため、試合はそのまま続行され、相手の襟を握る釣手(右手)の勝手が違う田村亮子は組手争いで苦戦。
一方、身長で10cm以上上回る桂順姫は、田村亮子の奥襟を持って抑え、その動きとスピードを殺した。
試合は桂順姫ペースで進み、残り時間1分、
「もういくしかない」
と田村亮子は払腰をかけたが軸足が滑って崩れた。
(アトランタの畳は滑りやすく、それは動きのいい田村亮子にとって有利と思われていた。)
そこを桂順姫が小外刈りで切り返し、『効果』を奪った。
残り時間は23秒。
焦る田村亮子は強引に技をかけたが、それを審判に「偽装的攻撃(かけ逃げ)」とみなされ『指導』までとられ試合終了。
試合が終われば選手は速やかに開始線まで戻らなければならないが、数秒間、畳にヘタリ座り込んで動けなかった。
その瞬間、日本は静まり返った。
2大会連続、銀メダル。
連勝記録もストップ。
衝撃的で悪夢のような敗戦だった。
「ああ、負けてしまったんだなあと。
しばらくの間、何もする気が起こりませんでした。」
4年間、積み重ねた練習と連勝記録、そしてなにより自信は、決勝の4分間で見事に砕け散った。
前大会ではすぐに「4年後に金メダル」といえたが、次のシドニーオリンピックについて聞かれても「金メダル」と答えることはできなかった。
こうしてキャリア最大のピンチを迎えた。

柔道を始めてから突き進み続けてきた田村亮子が初めて立ち止まり自らを省みる作業を行った。
「自分は本当に強かったのだろうか?
そう考えたら連勝は単なる数字の積み重ねに過ぎず、結局は力を維持しているだけだった。
決して向上しながら積んだ勝利ではなかったということに気がついたんです。
勢いや周りの期待に流されてしまった面もあった。
そう認められたことで新たな一歩が頼み出せるように思いました。
環境を変え、柔道への取り組みかたを変え、もう1度やり直そうと。
目標を簡単に口に出すことを控え、代わりにその思いを体中に溜めていこうと思った。
正直にそう思えるまでに、アトランタから1年以上かかっていました。」
1998年、トヨタ自動車に入社した田村亮子は、日体大大学院に通いながら、大学、警察とこれまでいったことのない道場に出稽古をして、新しい緊張感、新しい環境、新しい相手、新しい練習に身をさらした。
1999年1月、福岡国際女子で前人未到の大会9連覇を達成。
1999年10月、世界選手権4連覇。
しかし「シドニーで金メダル」というコメントは出てこなかった。

世界大会で4連覇を果たしながら、オリンピックの頂点とは無縁。
シドニーで3度目の失敗は許されない。
田村亮子は
「初心を取り戻したい」
と練習の拠点を東京から故郷の福岡に移した。
小学校時代に行っていた家の近くにある神社の階段上りを再開。
狭く急勾配の110段を石段を6回、かけ上がるのだが、最後は自分の膝を両手で押しながら上がっていった。
「バルセロナとアトランタでは決勝戦の前、心の中にわずかな油断があった。」
という田村亮子は、天神カイロプラクティックの寺川一秀トレーナーの指導で新トレーニングにもチャレンジ。
天神カイロプラクティックは、ただの治療院ではなく、たくさんのサンドバッグや器具があって、鏡の壁の囲まれた部屋の中でジャージ姿の人が行き交っていた。
そんな中で田村亮子は、トレッドミルで3分間、全力で走った後、台の上に置かれたコップの前に立つ。
そしてその位置を記憶し、目を閉じて、コップをとる。
コップをとった後は、またトレッドミルに戻って全力疾走。
疲労が蓄積しても集中力が切れないようにするトレーニングだったが、田村亮子は、相手の襟をつかむイメージで行った。
「左」
「右」
とトレーナーの指示でコップをとる手をかえたり、台との距離を長くして1歩前に出てからとったり、目を閉じてジャンプしてからとったりと段階的に難易度が増していく。
何度も失敗する田村亮子に、トレーナーは、
「疲労してからの正確性ね」
とトレーニングの目的を再認識させる。
「ジャンプして1回転してからコップをとる」というのが最も難しい課題でなかなかできず、やっとできたとき、田村亮子は思わず
「ヤァー」
と試合のときのような声を出した。
次の日、課題は「ジャンプして1回転して、一歩前に出てからコップをとる」にバージョンアップした。

2000年4月9日、シドニーオリンピックの最終選考を兼ねた全日本女子選抜体重別選手権が行われた。
田村亮子は、左手小指の軟骨骨折、右手薬指の靱帯損傷というケガをしていたが10連覇を決め、オリンピック行きのチケットを手に入れた。
1ヵ月後、熊本県でオリンピック代表の強化合宿が開始。
コーチの古賀稔彦から指導を受けた。
バルセロナオリンピックで直前に大ケガを負いながら金メダルを獲った古賀稔彦を、田村亮子は大尊敬していて、その技術だけでなく精神力も学ぼうと努めた。
5月下旬、シドニーにいき、1週間、滞在して現地を下見。
最大の目的は試合会場で、どうしても9月16日の本番の前に自分の目でみておきたかった。
40分間、試合会場となる場所を歩きながら、金メダルをとるイメージを高めた。
これも過去2回のオリンピックではなかった「メンタルリハーサル」というメンタルトレーニングだった。
7月下旬、オリンピック代表の3度目の合宿が北海道の清水町で行われた。
この合宿は強化の最終段階で、連日、6時間を超えるトレーニングと練習で、田村亮子を含め選手の肉体は極限まで追い込まれていった。
10月、世界選手権の決勝戦で、田村亮子はキューバのアマリリス・サボンと対戦。
10連覇がかかった大一番を前に
「オリンピックの決勝と同じ。
絶対に結果を出さなくてはならない。」
とシドニーオリンピックの決勝とダブらせ、自分を追い込んだ
試合開始1分、左手小指の軟骨を骨折。
1本どころか、有効も効果も奪えなかったが、粘り強く戦い、判定勝ち。
強い勝利への執念をみせた。

田村亮子さん シドニー五輪で名言「最高でも金、最低でも金」

2000年、
「シドニーは最高でも金、最低でも金」
オリンピックが近づくにつれ田村亮子はこの言葉を繰り返し口にするようになった。
9月17日、25歳の田村亮子は、3度目のオリンピックに出場。
初戦の趙順心(中国)戦はペースをつかめないまま進み、「判定負けかも?」と思われたが、残り1秒で相手の内またを返し、有効を奪って勝利。
「薄氷の勝利」といわれたが、続く、ルスニコワ(ウクライナ)は払い腰で1本。
準決勝のチャ・ヒョニャン(北朝鮮)戦では組み手争いの応酬で、両者に『注意』が与えられ、残り1分20秒、主審は田村だけに『警告』を与えた。
しかし副審のアピールで取り消しになり、残り30秒から寝技で攻めた田村亮子が判定勝ち。
「あまり無理はしなかったですね。
4年前は無理にいって負けたから、その点では試合を冷静に判断して戦えました。」
勝つことを意識すると人間は守勢を強めるというが、田村亮子は勝負への執念としたたかさをみせた。
そして決勝でリュボフ・ブルレトワ(ロシア)を、開始36秒、内股で投げると、主審は手を上に上げ、
「1本」

ついに金メダル。
田村亮子は、一気に喜びを爆発させた。
跳びはねながらガッツポーズ。
顔をくしゃくしゃにして涙を流した。
日本にも、やっと歓喜の瞬間が訪れた。


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